昭和45年04月01日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
そこからおかげが受けられる。私はそこからおかげが受けられるという様な信心。ここに一心に信心して、そこからおかげが受けられると言った様な信心。そういう信心が私は良い信心だと思うですね。あちらの信心は中々良い信心だという風に申しますが、ただその熱烈であるとか、という様なただ熱心であるという事だけが良い信心ではないでしょう。矢張り筋が良うなからにゃいかんとこう思う。ね。
良い信心。どんな場合でありましてもどんな時でも、これを人のせいやら例えば、おかげが受けられない時ですね、神様に力が無い様に思うたり、ね。それを人のせいにしたりする様なね、信心はだから良い信心じゃあないという事になります。お互い折角信心させて頂くのですからね、良い信心をさせて貰わにやいけません。何でも同じです。何の稽古事でも同じですけれどもやはり筋の良い信心。
筋の良いいわば師匠と、につかなければならんという事が分かります。うどんなにですね、これは例えば三味線の稽古なんか皆致しますがね、もう筋の悪い師匠なんかについたらもうお終いです。まぁ芸事なんか、皆何でも同じでしょうけれども妙な癖のある人についたらもうそれを抜けきるまでに大変な、苦労をせんなりません。数ばかり沢山あがってもですねすじが悪い。
で段々稽古していくうちにそれに気が付いて、まぁ師匠を代えて致しましてもですね、それを今まで習うて来た事を、一遍さらにしてそして習うまでには非常に時間と苦労がいる、いります。本当すじの良い師匠につかなきゃ、いわゆる筋の良い稽古は出来ません様に信心も同じ事。ね。とにかく良い信心をさせてもらう。なら良い信心とはどういう信心かと。と私は今日四十二節でね、そういう風に感じます。
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっている。これはまだ信心が足りぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」というそこからおかげが受けられる様な信心。だからいつもこれはまぁだ私の信心が足らぬからじゃと言った様な信心。そういう信心をですね、私は良い信心だと思います。ね。
ちょっとした事でよう信心を挫折する。だからそういう信心は私は良い信心じゃないと。良い信心をさせてもらうと。もう理屈抜きにしてそういう生き方ですね。まぁ私の信心の取柄と言うならそういう所じゃなかろうかと自分で思わせてもらいます。もうどんな場合でも、どうしてこういう事になっただろうかという風には、まぁ感じた事が自分、無いようですねぇ。とりわけ、私が外地から引き揚げて参りまして此の方の信心は、確かにそうだったと自分でも思うとります。ね。
本当に信心しとってどうしてこういう様な事がといった様な事には、もういつも、直面しておりましたけれど。そういう都度都度にです、元気な信心と言うか、そういう都度都度に私の信心は飛躍していった様に思います。信心をただ止めないというだけじゃなくて、どうしてこういう事がという様な時にですね、私信心が飛躍していかなければ良い信心とは言えないと思うですね。
只そこをね、只その乗り越えたというだけではいけん。どうやらこうやらで乗り越えたというのではなくて、どうしてこういう事が起きるであろうかと普通から言うたら言われる様な思われる様な所をですね、一段と飛躍のまぁ一つの段階としていく様な信心。そういう信心をね、私は良い信心だと思う。だからこの四十二節にあります、そのはまぁそういう信心をさせて頂けというわけですけれども、私はこういう信心が出来る信心を私は今日は良い信心だと、今日は皆さんに聞いてもらっとるわけです。
果たしてお互いの信心が良い信心であろうか。成程続けてはおる。続けておるけれどもその都度に、その例えば節とでも申しましょうかね、節の度に信心が飛躍しておるという様な信心ね。だからその根底にはいつも、これはまだ信心が足りんのだと思うてそこを飛躍しておる。又は神様がより良いおかげを下さる事の為だと、確信して信心を進めていっておる。私本当にそういう意味でまぁ私の信心の取柄というならそういう所だと思いますね。所謂もう難をみかげとして頂いていっておるという事です。
私共が引き揚げて帰って来まして、まぁいうならば裸一貫で家族の者が親子4人が引き揚げて帰って来たんですけれど。椛目の方では当時、酒の配給を致しておりました。だから食べるという事だけにはまぁまぁ事欠きませんでした、私共が帰って参りましてもね。酒の、当時の酒のお商いというのは少ないですけれども、まぁ生活には困らなかった。帰らせて頂きましてからしばらくいたしましてまたそれが整備にあいましてね、酒屋がぐっと減る、減る事になりました。
私の方は私が、戦前に、酒を売るという実績は沢山もっておりましたから実績の上では私の方は残っても良いはずでしたけれども、地の利が悪い。みんな椛目という所は少しばかりの件数でこちらの方へ島、矢作といった様なものを含めてうちで配給しておりました。ですからその矢作とか、島辺りの人が大変不自由したわけですね椛目までこんならんし、どっちからもその不自由だった。
ですからそういう点でですね、私共が分が悪かったんです。実績はもっておるけれどもお客さんの為にならなかったわけですねぇ。そんな事で、まぁ私共が出来ない事になった。もちろん神様にお取次を頂いてお願いをして、親先生もその事はもう本当に、泣きっ面に蜂という様な事が続いておる時でございましたから、これに商売どんも出来ん事なるならもういよいよというわけでね。
まぁ一生懸命お取次をしてからお願いをして下さった。私はもうその時の事は忘れません。あの椛目の内田さんのご主人がおられましたが、その皆村内の人達の声が聞こえてくるわけですねぇ。いわゆる投票で決まったわけですよね。だからあのう投票前にね、タオルの一つずつなっとん村内配ってからよろしくお願いします言うて一遍周りなさったが良かですよちゅう。
まぁそういう風に皆が話よりますよと言う様に内々で教えて下さいましたけれども。まぁ何と言うんですか、頑固な信心とでも申しましょうかね。もうとにかくそういう事までしてからまぁ残らんでも良い。神様の方がおかげ下さるんだからという風に、まぁせっかく言うて下さったので私それを、断りましてね、で神様一本でお縋りさせて頂いてまぁ、ああその、見事に出来なくなったんですね。落ちたわけです。
もうそれは本当に目の前が真っ暗うなるようですね、私が引き上げて帰って来た、うちにはようやく細々とその酒、酒一本で生活しておるのですからそれが取り上げられるわけですからねぇ。ところがもう私はその瞬間に思うたです。これは酒屋位のことじゃなかまだ良か、神、神様が良か商売をさせて下さるに違いが無い。もうこれがもう確信でした。もうすぐその場でお礼に出らせて頂きましたら親先生が、「それはもう本当困った事になったの」っちから仰いました。
親先生、もうそれは勿論親先生の心の中には無かろうけれども私を慰めて下さる意味で仰ったに違いないですけれども、「いや親先生これはおかげでございます」っち私が申しました。おそらく神様がまぁだ酒屋よりも良い商売をさせて下さるに違いはない。私はそうまぁ確信させて頂きますからどうぞお礼を申し上げて下さいという様な調子でした。もう一事が万事に。もうこれ程お願いしとるのに、これだけ信心させてもらいよるのに、もうそういうものはもう本当にさらさらありませんでしたね。
だから私はそういう信心をね、今日は良い信心だと。いくらお願いしたっちゃ同じ事じゃねえかと例えばですね主人が言う。あなた一生懸命参りなさるばってんこんな事があってとまた家内が言う。そういう信心ではね、良い信心とは言えません。私は今日は皆さんにですね筋の良い、良い信心をして頂きたいという事です、ね。もちろん筋が良いという信心はですね、第一、焦点がよくなからなければいけない事は勿論です。ね。ただ、ただおかげを頂くという事だけではなくてね、筋の良い信心、良い信心。
笠岡に斉藤重右衛門という、金光大神の御神号を頂かれた程しのお徳を受けられた、先生がおられました。その方の、お弟子に浅井という先生がおられまして、その浅井先生の事をですねこういう風に評しておられますですね。「その頃笠岡二代の先生(旧姓田川)さんは、あなたは素性が良いから大きなおかげを受け、受けている、おかげを受けているなぁと、ね。私まで良いおかげを受けたと仰せられる」例えばお取次をさせて頂く御信者の中にね、筋の良い信心をさせて頂くとね。
例えて申しますなら、そりゃあ目の前が、真っ暗うなるというかね、大変困ったという事の場合、様な時に本当におかげを頂きました、お礼を申し上げて下さいと、いう様な信者があるならね、お取次させて頂く、先生までおかげ受けると言う。ね。泣き言を言わん。ね。いわゆるそれをむしろおかげとして頂いておる。でなかったら、ね、これはまだ到底信心が足りんからとして、今迄とは違った。
いわば一段と新たな、良い信心に進んでおるという様なね、御信者さんのお取次をさせて頂くという事は、私までもおかげを受けると仰っておられる。私までもおかげを受けるのですよ確かに。だから皆でもそういう信心をして頂きたい。この方は大明神という御神格を受け、当時受けておられたようですね。「あなたは先で身内の者より他人が尊敬するようになると仰せ下され、妙な事を仰せられると思いよりしが。
浅井家へこらして頂く様になった」と、いう風に言っておられます。あなたは身内の者よりも他人から尊敬される様になります。そういう信心はならどういう信心であったかと言うと素性が良かった。だから私は今日はその素性が良いという信心を私は四十二節から頂きました。素性が良い、ね、良い信心と。はぁいっちょなかなか良い信心をされると、という良い信心とはどういう信心かと。
それを今日はね、どうしてこの様な事がという様な場合にです、これはまぁだ私の信心が足りぬからだと信心をそれから一段進めていくという様な信心。そこん所をですね、一段進むよう何もせずにですね、ただ、ただただ何十年信心が続いておるという人は沢山ありますね。けれどもこれはまぁだ自分の信心が足りんとしてですね、信心を一段進めていくという人が少ない。そういう信心です良い信心とは。
私は弟が戦死の公報を受けたその月から、あのういわば難儀な中から御本部の月参りはその月から始めました。違うでしょうが。だから私の信心がまぁ素性が良い事、そうばってん自分じゃあ分かる、分かるもんじゃありません、やっぱ人から言われにゃ分かりませんけれどもですね、まぁ良いか悪いか知らんけど、唯良い信心という意味においてですね私は良い信心をさせて頂いて、良い信心を頂いておったなぁと思います。
とても一家中でこがしこ一生懸命お願いしてからほんなしかも、ね、終戦というほんの間際に七月三十日というギリギリの時に戦死するなんて神様も本当にござるとじゃろうかと言うて神様に不足を言うても良い様な中にあってですね、私はその月から御本部月参りを始めております。さぁ長年させて頂いておった酒屋の商売が出来なくなったという時に私がそれは一段と信心が、あー、進んだというわけではなかったですけれども、その事を私はお礼を申し上げて下さいとして受けておりますもん。ね。
ですからこれはもう何と言うですかね、これは信心が足りんからだと一心に信心をしていけばというよりももう少し垢抜けしとると思いますね。その事を有難い事として、それを私が「これはとても酒屋よりも神様がもっと良か商売を与えて下さるというお気持ちだからこれは出来なかったんだ」と私はそう確信しておるです、ね。皆さん本当にそういう所をですね、まぁ私の信心から、
見習うて頂く、と言うならそういう所を、一つ私の過去信心の過去という物を見て下さってです、本当に、難と思われる中から、その都度都度に私がその一段、信心が飛躍しておる所、それをおかげの元にしていっておるという事位の事だと私は思うです。けれどもね、それがなら普通の人には出来んのですから。信心は続いております。信心は続いておるけれども、それをもう一段と、そこから信心を進めとらん。難をみかげとして有難く受けとらん。ね。
今日私四十二節をね、四十二節を良い信心と、とはこういう信心をもって良い信心と言うのだという事を聞いて頂きました。ね。四十一節に、ね、その前のところに練り出すが良いというのが次のページにこうすっと、この41という所を実は今日は頂いたんです。良い。そしてこの四十二節を頂きましたから、ははぁこの四十二節から良い信心を頂けという事だと思いましたから。
この四十二節の様な生き方あり方からこそ、良い信心とはこういう信心だと思うて、これを開かせて頂きましたら今言う様に、浅井という先生の信心をね素性の良い信心だと言うておられる所を頂きました。ね。そしてあなたはゆくゆくはね、身内の者よりもね、人の方があなたを尊敬したり、あなたを大事にする様になります、と言われた時には。信者時代の事でおありになりますから。
何の事か分からなかったけれども、段々おかげを受けられてです、なるほど御信者さん方から、生神様の様に言われる様な、御信心御神徳に、進まれる事になったという事が、が、書いてありました。私もそれを思い合わせて、私のそれとこれとを思い合わせましてですね、私もそれを感じました。今日は四月一日、私が五十六回の、誕生を迎えさせて頂きました。昨日、お届けがございました。
少年少女会の方達から、お届けがありました。明日の先生の、お誕生日には、御月次祭に合わせて、お礼を申して、先生のお誕生の事をお届け頂きたい、そして花束贈呈をさせて頂きたいつもりでありますから、とまぁ私が、そういう花束贈呈を受ける程しのですね、私のこの世に生を受けたという事がそれ程大事にされるといった様な私ではございませんけれども、ね。
まぁ小さい方達がそういうあのう思いを、そういう盛り上がりがあっておる、おりますからそういう事を、させてもらうという事を聞かせてもろうてです、今日のこれを頂かせてもろうて、なるほど身内の者はそうではなくても、むしろ外の方の方が今言う私をまぁ言うならば大事にして下さる。お誕生に花束贈呈でもして下さろう様にです、おかげを受けておるという事は。私がまぁ今日の御理解から言うなら、良い信心をして来たからからではなかろうかと思います。ね。
いかに良い信心をしたと言うてもねその都度都度におかげが飛躍しておらなかったら良い信心とは言えません。そこを曲がりなりに通りましたといった様な事では駄目です。そこを本当に一段とし、これはまぁだ信心が足りんからだという頂き方でなかったらもっと素晴らしくそこをです、これはもうおかげに違いはないと確信しての信心です。ね。そういう信心を私は今日は良い信心という風にして聞いて頂きました。
皆さんどうぞ良い信心をして頂かなきゃいけません。まぁだ私、自分の信心が良い信心とか素性が良いとかという事は自分ながらおかしい事ですし、また自分では実際分からんのです。ね。これは人が見らなければ分からん。はぁもう合楽の大坪さんなん妙な信心するっち(笑)。まぁ言いよる人があるかもしれませんからね、実際はね。とてもあんたごたる信心なら出来んっちやっぱ実際に言われて来たんですからね。
ですけれどもおかげがなかなかここのおかげは素性が良い所を見るとです、やはり素性の良い信心だっただろうと思うのですよねね。第一そして焦点が良いね。最近ではいわゆる和賀心。これが焦点。昨日北野の秋山さんが、丁度四時の御祈念終わらせて頂いたらお参りになっておられました。でお届けをされますのに大体は秋山さんは元宮ノ陣の教会におかげを、御神縁を頂かれたのが初めてであった。
その時にね、あちらの親先生から天地の大恩という事を頂かれた。お話に。もうそれこそびっくりする程にですね、こりゃあ私はこの神様ば一生信心させて頂く事になるだろうと思うて感動したと言うとられます。はぁ御利益とかおかげとかいう信心なら随分聞きも見もしたけれども、ね。この神様は天地の大恩を分かる事が先と頂かれた時にこれは大変な神様だと思うたと。
初めて参ってその御理解を頂いてから非常に感動したと言うておられます。ね。色々な事情がありましてから、北野の教会に移られましたり、そしてまた合楽に移られましたり、それからまた宮ノ陣に帰られましたり、まぁ様々信心の一つの流転と言うですかね。様々に信心をなさいましたけれどもならいよいよ合楽に、一心に決めこまれてもう二十年近くにやっぱりなる、なるでしょうね。そしてここで一生懸命信心の稽古させて頂いた事は。本当に成り行きを大事にせよという事であった。
その時その時の事柄。ね。いわば自然のその成り行きとの対決という事を非常に尊ばれた。その事を二十年間いわば稽古してきた。成り行きを大切にしたり、その成り行きと対決してそれをおかげにしていこうという生き方をいうならば学ばせて頂いた。そのいうならば二十年間余りの信心こそがね、今言われておる和賀心時代に突入する為の下準備であった。和賀心学の稽古のそれが下地であったと思わせて頂く様になられた。最近ではそこの所を、今までこの二十年間という稽古が。
その稽古があっておったおかげでこの和賀心時代にすっと突入できたとこう。そして最近ね、その和賀心和賀心と念じその事を思わせて頂くだけでもね、丁度二十何年も前の話でしょうが宮ノ陣で初めて天地の親神様の御恩徳を聞かせて頂いた時に感動した様な感動をね。その和賀心時代に突入という事を、思うただけであの時と同じ様な、感動を覚えますと言うておられます。そして金光様の御信心は成程天地金乃神様、天地の親神様の御恩徳を分かっての、信心だけれどもそこから。
様々な信心があるけれども、もう結局ぎりぎり焦点にする所は。もうこの和賀心を極めていく事に、極まったと思うた。それが分からせて頂いたら、もう何と言う素晴らしい事だろうかと、思うて感動すると言うておられます。今日も月末で昨日の言葉ですから。お商売の事に支払いの事を、お取次をお願いさせて頂いて、いつもはあそこからいくら借らしてもろう、てここからもいくら借らせてもろうてと、いう様な事ばっかり考えておった私でしたけれども。
これはもう和賀心で、おかげを受けていく以外には無いと思うた。そしたら先生もうそれこそ本当に、思いもかけない所から、思いもかけない方法でです、おかげを頂いて、今日支払いを済ませて頂いたと言うて、お礼のお届けがありました。ね。おかげを受けるという事は、今迄において変わりは無いけれど。その和賀心に極まったと、御道の信心は、ここに極まったというですね、思うた時にそのまぁ何とも言えん感動を覚えると言われる信心。
私はそういう信心をですね、いよいよもう間違いの無い筋の良い信心だという風に思います。皆さんどうでしょうか。天地の親神様、金光教の信心もう、私は恐らく一生この信心をさせて頂く事であろう。そこも素晴らしいですね。けれどもなら生き方は様々な素性の信心がありましてね、色々あります。はぁ一心に御祈念さえして、御祈念しておかげを頂くという生き方の人もありゃ、ね。御用すりゃ助かるというて、御用ばっかりさせて頂いて、おかげを頂いていく人もあります。
けれども是はどこまでもおかげである。ただ辛抱だけしとるという様な信心もある。まぁそういう物まで、一切含めての事ですけれども、合楽の場合焦点がですね、どこに置かれるかと言うと和賀心である。ね。だからそういう意味においても私はまぁ素性の良い信心だとこう思いますね。焦点が良い目当てが良い。ね。しかもそれにですどの様な場合でもこれはまぁだ私の信心が足りぬからだとして。
信心をそこから一段進めるという信心。そういう良い信心を頂いていけば愈々有難い結果になる事を私は信じます。皆さんの自分の信心と一つ思うて引き比べてみて、はぁ私は筋の良い信心を習うていきよるというならそれをいよいよ進めていかれたら良い。自分の信心はああいう節のあったたんべんにやめはしとらんばってん。あん時に信心がちょっとぐずついた思われるならそういう所を一掃した信心にね、進んでいかなければならんと思うです。
どうぞ。